橘玲著『上級国民/下級国民』の分析報告:現代社会における分断の構造解明
第1部 序論:新たな社会階層の出現
1.1 本書の背景と著者について
著者である橘玲(1959年生まれ)は、経済、金融、投資といった分野での執筆活動からキャリアをスタートさせ、その後、より広範な社会批評へと領域を広げてきた作家である。その著作と思想の根底には、進化心理学、行動遺伝学、リバタリアニズム(自由至上主義)からの強い影響が見受けられる。この知的背景は、本書で展開される議論が、しばしば冷徹なデータ分析に基づき、個人の努力よりも生得的な要因やマクロな構造を重視する決定論的な色彩を帯びる理由を理解する上で不可欠である。
1.2 中核概念の定義:「上級国民」と伝統的階級論の差異
本書の核心は、「上級国民」と「下級国民」という二つの集団への社会の二極化というテーゼにある。橘の定義によれば、「上級国民」とは富、共同体、そして性愛といった幸福な人生に不可欠な資源を独占する少数派であり、対する「下級国民」は、それらの資源から恒久的に排除される多数派を指す。
この概念が従来のマルクス主義的な階級(クラス)や「エリート」といった言葉と一線を画すのは、その固着性と非可逆性の強調にある。従来の階級論が、個人の努力や才覚によって上昇可能な「梯子」の存在を暗黙の前提としていたのに対し、「上級国民/下級国民」という区分は、一度「下級」の側に転落すれば二度と這い上がれない、固定化された身分制度、あるいは一種のカーストとして描かれる。
この言葉が社会的に広く浸透する直接的なきっかけとなったのは、2019年4月に発生した池袋暴走事故である。この事故では、元高級官僚の高齢男性が運転する車が暴走し母子2名が死亡したが、運転手が現行犯逮捕されず、またメディアが「さん」付けで報道したことが、他の同様の事件との対比から「上級国民への忖度ではないか」という国民的な怒りを引き起こした。この事件は、多くの人々が潜在的に感じていた法の下の不平等や、見えない特権階級の存在に対する疑念を結晶化させる触媒として機能した。
1.3 中心的な主張:決定論的な分断
本書が提示する最も挑戦的な主張は、この分断が解決すべき社会問題ではなく、個人の努力では抗うことのできない「冷酷な自然法則」であるとする決定論的な見方である。そして、「下級国民」を待ち受ける運命は、単なる経済的困窮にとどまらない。それは、人間が幸福を感じる上で根源的とされる二つの要素、すなわち共同体(コミュニティ)からの所属意識と、性愛(恋愛・結婚)を通じた親密な関係性の両方から完全に排除されるという「残酷な運命」として描かれる。
この議論の構成は、本書の成功が、それが描写する現象そのものの症状であることを示唆している。つまり、戦後日本社会を支えてきた「一億総中流」という神話と、努力すれば報われるというメリトクラシー(能力主義)への信頼が崩壊し、社会は固定化され、不公正なルールで運営されているという諦念が広がる中で、橘の著作は、その構造的な要因を解き明かす理論的枠組みを提供したのである。その衝撃的な言葉は、人々の不満や不安を映し出す鏡となり、社会現象を解釈するための強力なレンズとして機能するに至った。
第2部 分断を駆動する三つの柱:知識社会化・リベラル化・グローバル化
本書の理論的骨格をなすのは、現代社会を規定する三つの巨大な潮流、すなわち「知識社会化」「リベラル化」「グローバル化」が相互に作用し、不可逆的な分断を生み出しているという分析である。このセクションでは、それぞれの潮流がどのように社会の階層構造を再編するのかを詳述する。
2.1 選別装置としての知識社会化
知識社会とは、価値の源泉が工業製品の生産のような物理的労働から、情報処理や創造性といった知的労働へと移行した社会を指す。このような経済構造は、必然的に高い認知能力を持つ個人を優遇し、それを持たない人々を社会の周縁へと追いやる選別装置として機能する。
この文脈において、教育の役割は根本的に変容する。かつて社会移動の手段と考えられていた教育は、橘によれば、むしろ既存の有利さを固定化し、社会を分断する「格差拡大装置」へとその本質を変える。現代社会における最も根源的な分断線は、最終学歴、特に「大学歴の所有/非所有」によって引かれると本書は断じる。この主張は、知能がある程度遺伝的要因によって決まるという、著者の他作品でも見られる物議を醸す見解と密接に結びついている。日本特有の文脈としては、ITへの投資とその効果の欠如が指摘されており、これは日本経済が知識社会への適応に失敗し、長期停滞に陥った一因とされている。
2.2 リベラル化のパラドクス
リベラル化とは、かつて個人を保護するセーフティネットとして機能した家族、地域共同体、企業といった伝統的な共同体の束縛を解き放ち、個人の自由な選択を至上の価値とする潮流である。しかし、この自由には「究極の自己責任」という厳しい代償が伴う。
リベラルな社会では、出自や性別、人種といった前近代的な属性による差別が不正なものとして退けられる結果、人々の間に生じる格差を正当化する唯一の根拠は「個人の能力(メリット)」となる。そして知識社会において、その「能力」は認知能力とほぼ同義とされる。その帰結として現れるのは、一見すると公正だが、極めて冷徹なメリトクラシーである。このシステムの中では、成功は個人の才能と努力の賜物と見なされる一方で、失敗は社会構造の問題ではなく、純粋に個人の能力不足や努力不足に帰せられる。個人の選択と移動の自由が強調されることは、同時に共同体の絆を弱め、特に経済的に成功できなかった人々を深刻な孤立へと追い込む。
2.3 グローバル化の二重の影響
グローバル化は、世界全体で見れば、中国やインドをはじめとする新興国の数億人を貧困から救い出したという点で、紛れもなくプラスの側面を持つ。しかし橘の分析は、その恩恵が不均等に分配され、先進国の国内においては深刻な亀裂を生んだ点に焦点を当てる。
先進国の資本家や、グローバル市場で通用する高度な専門性を持つ「クリエイティブクラス」は、グローバル化によって莫大な利益を得た。一方で、かつての中間層を構成していた国内の労働者階級は、安価な労働力との国際競争に晒され、雇用の喪失や賃金の低下に直面した。この結果、先進国社会の分厚い中間層が崩壊し、少数の「上級国民」という勝者と、多数の「下級国民」という敗者へと社会が二極化していく。日本が「アジアの庶民にとって安く手軽に旅行できる国」になったという指摘は、グローバル化の時代における日本の相対的な経済的地位の低下を象徴的に示している。
これら三つの潮流は独立して作用するのではなく、相互に影響を増幅させ合う「鉄の三角形」を形成している。グローバル化がもたらす熾烈な競争は、知識社会で評価される認知能力の重要性を極限まで高める。知識社会は教育システムを通じて人々を選別し、勝者と敗者の階級を固定化する。そしてリベラル化は、この結果を「自由な競争」における「自己責任」としてイデオロギー的に正当化し、敗者に個人的な烙印を押す。この強力なフィードバックループこそが、「下級国民」が直面する絶望的な状況の根源にある構造なのである。
第3部 格差の解剖学:経済・社会・性愛の次元
マクロな構造的要因の分析から、本セクションでは分断が個人の生に具体的にどのような形で現れるのかを解剖していく。平成期の経済的現実、橘独自の多角的資本フレームワーク、そして最も物議を醸す「モテ/非モテ」の断絶について詳述する。
3.1 経済的亀裂:平成という時代の遺産
本書の分析の出発点は、バブル崩壊後の「失われた時代」における日本経済の構造変容にある。高賃金の製造業から低賃金のサービス産業への労働移動、特に女性や若者を中心に拡大した非正規雇用、そして長期にわたるGDPの低迷が、「下級国民」を生み出す土壌となった。
さらに深刻なのは、世代間の不均衡である。橘は、平成の30年間が、実質的に団塊世代の雇用と既得権益を守るために、団塊ジュニア以降の若い世代を犠牲にした時代であったと厳しく指摘する。「守られた“おっさん”の既得権」という言葉に象徴されるように、硬直化した雇用制度が世代間の富の移転を妨げ、深刻な世代間対立の火種となっている。この経済的収奪の果てに生まれるのが、社会から完全に切り離されたアンダークラスであり、その極端な形態が、公式統計の数倍(100万人ではなく500万人規模)に達する可能性が示唆される「ひきこもり」である。
3.2 現代を生きるための通貨:多角的資本フレームワーク
橘の分析は、彼の先行する著作『幸福の「資本」論』で提示された枠組みに基づいている。そこでは、人間の幸福は三種類の資本、すなわち資産や投資からなる「金融資本」、スキルや稼ぐ力である「人的資本」、そして家族や友人との繋がりである「社会資本」の総量によって決まるとされた。
『上級国民/下級国民』では、これに第四の、そして決定的に重要な資本として「エロス資本」が加えられる。エロス資本とは、性的な魅力や異性からの人気を指す。橘によれば、若い女性は他の資本を持たなくてもこのエロス資本を潤沢に持つため、他の資本を持たない若い男性に比べて幸福度が高い傾向にあるとされる。
この四つの資本の保有状況こそが、「上級国民」と「下級国民」を分かつ決定的な要因となる。「上級国民」はこれら全ての資本を豊かに保有し、それらが相互に好循環を生み出す。対照的に、「下級国民」は全ての資本が欠乏しており、一つの資本の欠如が他の資本の獲得を妨げる悪循環に陥っている。
表3.1:社会的分断を規定する四つの資本フレームワーク
| 資本の種類 | 定義 | 「上級国民」(保有者)の役割 | 「下級国民」(非保有者)の帰結 |
| 金融資本 | 労働から独立して所得を生み出す資産、投資、富。 | 自由、安全、リスクテイクの基盤。他の資本(子の教育等)への投資を可能にする。 | 依存、不安定、賃金労働からの脱出不能。自己投資への資源が枯渇する。 |
| 人的資本 | 労働市場で価値を生み出すスキル、知識、学歴、経験。 | 高賃金でやりがいのある「クリエイティブクラス」の職。金融資本と社会資本を築く源泉となる。 | 低スキル、低賃金、不安定な「マックジョブ」に限定される。経済的不安定と自己実現の欠如。 |
| 社会資本 | 支援、アイデンティティ、機会を提供する家族、友人、共同体のネットワーク。 | エリートネットワークへのアクセス、強力な家族の支援、成功者コミュニティへの所属感。 | 共同体からの排除、孤立、脆弱な支援網。「ひきこもり」はその極端な例。 |
| エロス資本 | 恋愛・結婚市場における性的な魅力と人気。 | 他の資本がもたらす高いステータスが性的魅力に転換される。恋愛・結婚を通じて家族(重要な社会資本)を形成する。 | 経済的失敗が「非モテ」の烙印となる。性愛関係から排除され、家族形成が不可能となり、深刻な実存的絶望に繋がる。 |
3.3 「モテ/非モテ」の断絶:性愛の次元
本書で最も挑発的な主張の一つが、現代社会は「事実上の一夫多妻制」であるというものである。これは、高いステータスと所得を持つ「上級国民」の男性が、複数の女性との結婚・離婚を繰り返したり、多くの恋愛関係を持つことで、事実上、恋愛・結婚市場を独占している状態を指す。
その裏返しとして、「年収の低い男は結婚できない」という冷徹な現実が、「下級国民」の男性に突きつけられる。彼らは「非モテ」としてこの市場から完全に排除される。これは単なる恋愛の失敗ではなく、生物としての子孫を残すという根源的な欲求を否定されることを意味し、橘によれば、人生そのものを全否定されるに等しい、最も残酷な社会的排除の形態である。そして、この性愛からの排除がもたらす深い絶望と怨嗟が、社会への憎悪へと転化し、無差別殺傷事件のような「『非モテ』のテロリズム」の引き金になると分析される。
ここには、資本の役割に関する重要な力学の転換がある。伝統社会では、しばしば社会資本(家柄など)が経済的機会の前提であった。しかし橘が描くリベラルな個人主義社会では、まず人的資本や金融資本を獲得することが、社会資本やエロス資本を手に入れるための前提条件となる。経済的な失敗は、もはや単に貧しいということではなく、社会と性愛の両面における「価値の低い人間」という烙印として機能し、それが「下級国民」を待ち受ける「残酷な運命」の正体なのである。
第4部 グローバルな現象:日本から欧米世界へ
橘の分析は日本国内にとどまらない。彼は「上級/下級」の分断を、現代の先進国に共通するグローバルな現象として捉え、欧米で頻発する政治的・社会的な激動をこの枠組みで読み解こうと試みる。本セクションでは、その国際的な射程と、既存の社会学理論との関連性を検討する。
4.1 点と点を繋ぐ:トランプ、ブレグジット、そして黄色いベスト運動
本書は、2016年のドナルド・トランプ米大統領の選出、英国のEU離脱(ブレグジット)、そしてフランスの黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)運動といった、欧米社会を揺るがした一連の出来事を、単一の力学の異なる現れとして解釈する。すなわち、これらは全て、グローバル化、知識経済、そしてリベラルなエリート主義によって置き去りにされた「下級国民」による、「上級国民」に対する異議申し立てであり、反乱であると位置づけられる。
これらのポピュリズム的な運動は、特定の政治イデオロギーに基づくものではなく、経済的安定、共同体への帰属意識、そして社会的尊厳を奪われた人々の、剥き出しの怒りと抗議の表明として捉えられる。それは、自分たちの生活と価値観を破壊する巨大な潮流に対する、持たざる者たちの絶望的な叫びなのである。
4.2 「エニウェア族」対「サムウェア族」
橘の「上級/下級」という二項対立は、英国のジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートが提唱した「エニウェア族(Anywheres)」と「サムウェア族(Somewheres)」という分析的枠組みと深く共鳴する。この比較を通じて、橘の議論をより広い文脈に位置づけることが可能となる。
「上級国民」は、グッドハートの言う「エニウェア族」に相当する。彼らは高学歴で専門職に就き、そのアイデンティティは特定の土地や共同体ではなく、個人の業績や能力に根差している。グローバルな環境で活躍することに快適さを感じ、コスモポリタン的な価値観を持つ。橘は彼らを「リバタニア」あるいは「クリエイティブクラス」と呼ぶ。
対照的に、「下級国民」は「サムウェア族」と重なる。彼らのアイデンティティは特定の「場所(somewhere)」や地域共同体に深く根ざしており、伝統や安定を重んじる。彼らの生活様式や経済基盤は、「エニウェア族」が推進するグローバル化やリベラル化の波によって直接的な脅威に晒されている。橘が「ドメスティックス」と呼ぶのがこの層である。
この分析が示すのは、21世紀における社会の根源的な対立軸が、もはや「左派/右派」や「労働者/資本家」といった従来の図式では捉えきれないということである。新たな対立軸は、グローバル化に適応した知的エリート層と、土地に根差し、その変化から取り残された大衆との間の、経済的かつ文化的な断絶によって引かれている。現代政治の不安定さや予測不能性は、この新しい亀裂が従来の政治的カテゴリーを横断するために生じている。ポピュリスト的な指導者たちは、この「下級国民/サムウェア族」が抱く文化的・経済的な疎外感に訴えかけることで、古い政治的ラベルでは説明不可能な新たな支持連合を形成することに成功している。橘のフレームワークは、現代の政治的対立の全体像を再解釈するための有効なツールとして機能するのである。
第5部 批評的評価と結論的分析
5.1 議論の長所
本書の最大の強みは、労働統計、技術革新、社会的孤立、政治的ポピュリズムといった、一見すると無関係に見える様々な社会経済的トレンドを、「上級/下級」という単一の、首尾一貫した物語へと統合するその分析力にある 。それは、多くの人々が抱える漠然とした不安や不公平感に明確な輪郭と名前を与え、現代の不満を表現するための強力な語彙を提供した。特に、日本の世代間対立や既得権益の構造に対する分析は鋭い。
また、所得と結婚可能性の関連や、リベラリズムがもたらす負の側面といったタブー視されがちな主題に踏み込むことで、読者に「不愉快な事実」と向き合うことを強いる点も、本書の価値である。その挑発的な問題提起は、現代社会の病理を考える上で避けては通れない論点を含んでいる。
5.2 批判と論争点
一方で、本書の議論にはいくつかの批判的な視点が向けられている。最も根源的な批判は、著者の他作品にも通底する、生物学的・遺伝的決定論への傾斜である。成功を本質的に生得的な認知能力と結びつけることで(そして著者は他の著作で知能の遺伝性を強調する)、橘の議論は、社会構造や政策、そして個人の主体的な努力の役割を軽視する現代版の社会ダーウィニズムと解釈される危険性を孕んでいる。
また、「上級/下級」というあまりに鮮明な二元論は、より複雑で流動的な社会の実態を単純化しすぎているという批判もある。この枠組みは、広範な中間層の多様な経験を覆い隠し、過度に運命論的な印象を与える可能性がある。
さらに、多くのレビューが指摘するように、本書は現状分析の鋭さとは対照的に、処方箋の提示においては弱い。提示される解決策は、社会システム全体の変革よりも、現状のルールを理解した上での個人レベルの適応戦略に偏りがちである。特に、高い知性を持つ者がこの「ゲーム」を理解し、生き残るべきだというニュアンスは、一部の読者から哲学的に浅薄で、満足のいかない結論だと見なされている。
著者のスタイル自体も批判の対象となることがある。意図的に過激で挑発的な言葉を用いることで、慎重な議論よりも論争を呼ぶことを優先しているのではないか、という指摘である。
5.3 結論と今後の展望:分断された社会を生きる
本書は、読者に重く、そして答えのない問いを突きつける。もしこの分断が「自然法則」であるならば、社会政策に意味はあるのか。究極の自己責任の世界で、我々は他者に対してどのような責務を負うのか。国民の大部分が社会の根源的な報酬から排除されるとき、その社会はいかにして存続しうるのか。
興味深いことに、橘自身もエピローグで、AIとシンギュラリティの到来が、彼自身が分析した知識社会そのものを終わらせ、この階層構造を根底から覆す可能性を示唆している。これは、彼の決定論的な分析の中に、未来の不確実性という窓を残していることを示している。
最終的に、『上級国民/下級国民』は、明確な答えや希望を提供する書物ではない。むしろ、21世紀のリベラルな資本主義社会が抱える病理を、最も不都合な形で描き出した診断書である。本書が提示する「残酷な事実」は、読者の政治的・哲学的信条を試すリトマス試験紙のように機能する。ある者は、これを市場原理の効率性を示すものと捉え、自己の資本を最大化する個人主義的な戦略を導き出すかもしれない。またある者は、これを新自由主義の破綻の証拠と見なし、富の再分配やセーフティネットの強化といった、より強力な社会的介入を求める根拠とするかもしれない。
橘自身は前者の立場に近いように見えるが、彼が描く世界の暗さそのものが、後者の議論にとって強力な論拠となる。したがって、本書の真のインパクトは、未来への明確な道筋を示すことにあるのではなく、我々の時代の政治的・社会的な論争の最前線を冷徹に定義した点にある。それは、あらゆる思想的立場の人々が、今後向き合わざるを得ない「不愉快な事実」を白日の下に晒し、現代の不安を理解するための、避けては通れない基礎文献となっているのである。