トランプ現象が示す経済的先触れ:会田弘継氏の著書に基づくアメリカの構造転換と今後の発展に関する分析
第1部 要旨
本報告書は、ドナルド・トランプ氏をめぐる政治現象、通称「トランピズム」が、一過性の政治的逸脱ではなく、アメリカの政治経済における深刻かつ不可逆的な構造転換の表層的発現であることを論じる。この分析は、会田弘継氏の著書『それでもなぜ、トランプは支持されるのか: アメリカ地殻変動の思想史』の核心的論考を基盤としている。
同書の中心命題は、トランプ氏がアメリカ社会の病の**原因(病因)ではなく、その症状(病状)**であるという点にある 1。この病とは、極端な経済格差の拡大と、かつてアメリカ社会の基盤であった中間層の崩壊に根差している 2。この構造的危機が、トランプ氏という政治的媒体を生み出したのである。
本報告書が明らかにするのは、この地殻変動が1980年代以降のネオリベラル的コンセンサス(グローバリゼーション、自由貿易、規制緩和)との決定的な断絶を意味し、経済ナショナリズム、産業政策、保護主義を中心とする新たなパラダイムの到来を告げているという事実である。バイデン政権ですら、関税政策やインフラ投資においてトランプ路線を継承せざるを得ない状況は、この潮流が党派を超えた構造的なものであることを示唆している 4。
この分析から導き出される経済的インプリケーションは以下の通りである。
第一に、持続的なインフレ圧力の常態化。
第二に、重要物資におけるサプライチェーンの戦略的な国内回帰。
第三に、資本の国内インフラおよび製造業への再配分。そして
第四に、より取引的で不安定な国際貿易環境への移行である。
これらの変化は、今後の投資戦略、リスク管理、および政策決定において考慮されるべき、新たな基本原則となる。
第2部 中核的診断:『絶望の国』としてのアメリカ
2.1 原因ではなく症状としてのトランプ現象
トランプ現象を理解する上で最も重要な視座は、同氏を混乱の唯一の要因と見なすことが根本的な誤診であるという認識である 1。メディアで頻繁に論じられる「民主主義の破壊」や「国際秩序の攪乱」といった事象は、トランプ氏個人が引き起こしたものではなく、むしろ彼の台頭を可能にした既存の病理、すなわちアメリカ社会の構造的腐食の結果なのである 5。彼は、数十年にわたって蓄積され、放置されてきた人々の不満や怒りに対する、政治市場からの応答として現れた「結果」に他ならない 7。
この視点に立てば、トランプ氏を単に排除しようとする試みは、根本的な問題解決には繋がらないことが明らかになる。不平等の構造が変わらない限り、たとえトランプ氏個人が政治の舞台から去ったとしても、支配される側の怒りと怨嗟を代弁する第二、第三のトランプが登場することは避けられないだろう 1。
2.2 絶望のデータ:アメリカの危機を定量化する
会田氏の著書が提示する分析の根幹を成すのは、アメリカ社会の深刻な分断を示す客観的な経済データである。
第一に、極端な富の集中が挙げられる。上位10%の富裕層が国家の総資産の66.6%を保有する一方で、下位50%の層が保有する資産は全体のわずか2.6%に過ぎない 1。さらに衝撃的なのは、ジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェットという僅か3人の資産家の合計資産が、アメリカ国民の下位50%(約1億6000万人)の資産合計額に匹敵するという事実である 2。これは、アメリカンドリームの理想とはかけ離れた、封建社会にも似た階層固定化の現実を示している。
第二に、経済と地理の分断である。2016年の大統領選挙において、ヒラリー・クリントンが勝利した郡(カウンティ)がアメリカ全体のGDPの64%を創出していたのに対し、トランプが勝利した郡はわずか36%しか生み出していなかった 1。このデータは、国が経済的に繁栄する沿岸部のエリート層が住む地域と、経済的に取り残された内陸部のラストベルト(錆びついた工業地帯)や農村地域という、二つのアメリカに分裂している実態を明確に描き出している。
2.3 『絶望死』:経済的疎外がもたらす人的コスト
この経済モデルがもたらす影響は、抽象的な統計数値にとどまらない。それは具体的な人命の喪失という形で現れている。本書が指摘する「絶望死(Deaths of Despair)」とは、特に低学歴の白人層において、自殺、薬物(特にオピオイド系鎮痛剤)の過剰摂取、アルコール乱用に起因する肝疾患による死亡率が急増している現象を指す 2。
これは他の先進国では見られない、現代アメリカに特有の病理であり、社会経済システムが単なる不平等だけでなく、致死的なレベルの絶望と希望の喪失を生み出していることの動かぬ証拠である 1。経済的な機会を奪われ、社会的尊厳を失った人々が、文字通り死へと追いやられているのである。
この「絶望死」の蔓延は、単なる社会悲劇に留まらない。それは、国家の生産性ポテンシャルを蝕む深刻な労働力減退の先行指標でもある。この現象が集中しているのは、まさに「トランピズム」経済が再生を目指すラストベルト地帯の熟練・準熟練労働者層である。したがって、製造業の国内回帰(リショアリング)を目指すいかなる産業政策も、深刻な人的資本の危機に直面することになる。労働力は早すぎる死によって物理的に減少しているだけでなく、生き残った人々も依存症や健康問題、そして意欲の低下に苦しんでおり、生産性や職業訓練への適応能力が著しく損なわれている。経済問題(雇用の喪失)が公衆衛生と社会の危機へと転移し、今やそれが経済的解決策の実行を妨げる障壁となっている。この悪循環は、単純な保護主義的政策だけでは断ち切ることができない構造的な課題である。
2.4 支持の心理:破壊されたシステムの『ゴジラ』としてのトランプ
本書は、トランプ氏を「ゴジラ」というメタファーで捉えることを提案している。これは単なる揶揄ではなく、彼の支持基盤の心理を理解するための分析的ツールである。
腐敗したエリート層によってシステム全体が不正に操作されていると感じている人々にとって、既存の秩序を破壊する力は脅威ではなく、むしろ歓迎すべき「創造的破壊」のエージェントとして映る。支持者たちは、機能不全に陥った政治を取り戻すための強力な「ハンマー」として、トランプ氏に「破壊者」の役割を託したのである 。彼らは、一度すべてを破壊し尽くした更地の上に、失われたアメリカンドリームの理想を再建できると信じている。この文脈において、トランプ氏の常識破りな言動や政策は欠点ではなく、既存秩序への挑戦の証として、むしろ熱狂的に支持される要因となっている。
第3部 大いなる分断:「上」対「下」の亀裂を解剖する
3.1 左派対右派を超えて:アメリカにおける新たな対立軸
会田氏の著書が提示する最も重要な分析的枠組みの一つが、アメリカの政治的対立軸の再定義である。伝統的な「左派(民主党)対右派(共和党)」という水平的な対立軸は、もはや現代アメリカの力学を説明する上で十分ではない。それに代わり、より本質的な対立軸として「上(the Upper)」、すなわち専門職、管理職、金融エリート層と、「下(the Lower)」、すなわち労働者階級および下層中間層との間の垂直的な亀裂が台頭している 4。
この「上下の分断」というレンズを通して見ることで、一見矛盾しているように思える政治現象、例えば、かつては民主党の岩盤支持層であったラストベルトの労働者がなぜトランプを熱狂的に支持するのか、といった問いに対する答えが明確になる。彼らの行動はイデオロギーの転換ではなく、自らを裏切ったと認識するエリート層全体への反乱なのである。
3.2 労働者階級への裏切り
この垂直的な分断は、両党のエリート層の行動によって長年にわたり醸成されてきた。特に本書が焦点を当てるのは、民主党の変質である。かつて労働組合を基盤とする「労働者の党」であった民主党は、クリントン政権、そしてオバマ政権を経て、ウォール街の金融資本やシリコンバレーのテクノロジー企業、そして高学歴エリート層と連携を深める「エリートの党」へと姿を変えた 1。
2008年のリーマンショック後の対応は、この裏切りを象徴する出来事であった。金融危機を引き起こしたウォール街の経営者たちが訴追されることなく、巨額の公的資金によって救済された一方で、多くの中間層は住宅や資産を失い、救済の手は差し伸べられなかった。この出来事は、政府と金融エリートが一体となって中間層以下を収奪しているという認識を決定的にし、ワシントンの既成政治に対する根深い不信感を植え付けた。オバマ政権下で格差がむしろ絶望的なまでに拡大したという事実は、多くの労働者階級にとって、民主党がもはや自分たちの代弁者ではないことの証明となったのである。
3.3 陽動としての文化戦争
本書はまた、近年激化している文化戦争(キャンセルカルチャー、人種問題、ジェンダー問題など)が、この本質的な階級対立を覆い隠すための「偽装の道具」として機能している側面を指摘する。両党のエリート層は、有権者の経済的な不満に直接対処することを避け、文化的な争点を煽ることで支持者を動員する。これにより、人々の怒りの矛先は、経済構造の問題から、敵対する文化集団へと向けられる。結果として、「上」に位置するエリート層は、その地位を脅かされることなく安泰でいられるという構造である。
3.4 階級に基づく分断線としての移民問題
移民問題を「上」対「下」のレンズで分析すると、その対立構造は一層鮮明になる。サービス業や建設業に従事する「下」の層にとって、大量の低技能移民(合法的か非合法的かを問わず)の流入は、自らの賃金を抑制し、雇用や公共サービスをめぐる競争を激化させる直接的な経済的脅威として認識されている。彼らにとって、国境管理は経済安全保障の問題なのである。
一方で、こうした競争から隔離され、むしろ安価な労働力によるサービスの恩恵を受ける「上」のエリート層にとって、移民問題は主に人道的・倫理的な問題として捉えられる。この認識の根本的な乖離が、「上下の分断」をさらに深刻化させ、政治的な対話を不可能にしている。
この「上」対「下」という構造は、アメリカ政治の不安定性が今後、一過性のものではなく恒久的な特徴となることを示唆している。なぜなら、この階級対立の断層は、共和党と民主党という既存の政党の内部を貫いているからである。左派のサンダース現象と右派のトランプ現象は、共に反エリート主義という点で共通しており、「下」の層がイデオロギー的に一枚岩ではないが、共通の敵として「上」を認識していることを示している。共和党は伝統的なビジネス・自由市場を志向する「上」の派閥と、新たなポピュリスト・ナショナリスト的な「下」の基盤との間で分裂している。同様に、民主党も進歩的な「下」の派閥と、支配的な企業・専門職の「上」の派閥との間で分裂している。
このため、貿易、気候変動、税制といった重要政策課題は、まず党派間の対立を引き起こし、次いで各党内での「上」と「下」の派閥間対立という二重の闘争を引き起こす。このような構造的不安定性は、どちらの党が政権を握るかにかかわらず、アメリカの政策の予測可能性を著しく低下させる。企業や投資家は、もはや長期的な政策の安定性を前提とした計画を立てることはできず、どの派閥が一時的に主導権を握るかによって政策が大きく揺れ動く事態を想定しなければならない。これは、政治リスク保険やヘッジ戦略への需要を構造的に高める要因となるだろう。
表1:大いなる分岐:米国における富とGDPの分布
指標 | 数値 | 出典/注記 |
富のシェア(上位10%) | 66.6% | 本書の分析に基づく 1 |
富のシェア(下位50%) | 2.6% | 本書の分析に基づく 1 |
GDPシェア(2016年クリントン支持郡) | 64% | 本書の分析に基づく 1 |
GDPシェア(2016年トランプ支持郡) | 36% | 本書の分析に基づく 1 |
この表は、米国の垂直的分断を視覚的に統合するものである。金融資産の集中と、生産的な経済活動の地理的集中を並置することで、この分断の多面的な性質が明らかになる。「下」の層が個人資産をほとんど持たない(2.6%)だけでなく、国の経済的中心からますます周縁化された地域(GDPの36%)に居住していることが示されている。これは、富裕で生産的なアメリカと、資産に乏しく経済的に疎外されたアメリカという「二つのアメリカ」の存在を経験的に裏付けている。
第4部 新時代の経済ドクトリン:保護主義、産業政策、そして『アメリカ・ファースト』
4.1 ネオリベラル的コンセンサスの終焉
前章までで詳述した深刻な社会危機は、必然的に新たな経済政策ドクトリンを生み出した。「トランピズム」経済学は、レーガン政権時代に確立された「小さな政府、自由貿易」というネオリベラル的コンセンサスに対する明確な拒絶である 10。本書の分析によれば、これはアメリカの保守思想における40年ぶりのイデオロギー的大転換であり、国家の利益を最優先する「大きな政府」への回帰を意味する 4。この変化は、もはや後戻りのできない構造的なものである。
4.2 第一の柱:保護主義と貿易戦争
新ドクトリンの中核をなすのが、関税の戦略的活用である。これは、かつてのような一時的な交渉戦術ではなく、国内産業を保護するための恒久的な政策ツールとして位置づけられている。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)のような多国間貿易協定は、国内の雇用を犠牲にして多国籍企業の利益を優先するものとして拒絶され、NAFTA(北米自由貿易協定)のような既存の協定は、国内の労働者と生産者に有利な内容(USMCA)へと強制的に再交渉された 10。これらの政策の究極的な目標は、特にラストベルト地帯における製造業の雇用を明確に国内へ回帰(リショアリング)させることである 10。
4.3 第二の柱:国内再投資と産業政策
「アメリカ・ファースト」の原則は、財政支出の指令としても機能する。「世界の警察」としての役割から手を引き、対外援助や膨大な国防費を削減し、その資源を国内の優先事項へと振り向けることが基本方針となる 10。その具体的な現れが、老朽化した橋、道路、港湾といったインフラへの大規模な公共投資である。これは、ブルーカラー層の雇用を創出するためのケインズ主義的な景気刺激策としての役割を担う 10。
同時に、エネルギー分野における規制緩和が進められ、化石燃料の生産が奨励される。これは、国家のエネルギー自給自足と、産業部門への安価なエネルギー供給を確保するという、国家安全保障と産業政策が一体となった戦略である。
4.4 知的基盤
本書が示唆するように、これらの政策は単なる思いつきではない。それは、ジェームズ・バーナムのような思想家によって育まれた、ナショナリスト的かつリアリスト的な知的伝統に根差している。この再浮上した保守思想は、抽象的な市場の効率性よりも、「強靭な家庭と健全な共同体」といった具体的な共同体の価値を重視する。この思想的背景を理解することは、この新しい経済ドクトリンが、短期的な政治的スローガンではなく、より深く根差したイデオロギー的転換であることを認識する上で不可欠である。
この新しい経済ドクトリンは、アメリカの政財界に歴史的な再編を強いることになる。具体的には、グローバリゼーションの下で繁栄してきた多国籍企業の利益と、ナショナリスト的な国家の目標との間に、根本的な利益相反が生じるのである。ネオリベラル時代は、米国政府が世界市場を開放し、米国企業がそこへ進出して利益を本国に還流させるという共生関係で特徴づけられていた。しかし、関税、リショアリング、貿易戦争といった新ドクトリンは、多くの巨大テック企業や小売企業が依存してきたグローバルなサプライチェーンや市場アクセスを直接的に損なう。逆に、鉄鋼、建設、一部の国内製造業など、グローバリゼーションによって不利な立場に置かれていた国内志向の産業には利益をもたらす。
この結果、企業のロビー活動の構図は一変する。かつてのような統一された「財界」は消滅し、保護主義に反対するグローバル志向の企業群と、保護主義を推進する国内志向の企業群との間で、激しい対立が生まれるだろう。米国政府は今後、半導体生産の国内回帰の要請に見られるように、国家安全保障や産業政策の目標に沿うよう、多国籍企業に対して規制や政治的圧力を通じて戦略の転換を強いる場面が増加する。これは、戦略的に重要な分野において、市場主導型資本主義から国家主導型資本主義へと移行しつつあることを示している。
第5部 アメリカ経済の将来的な軌道に関する予測
5.1 セクター別の勝者と敗者
これまでの政策分析を基に、今後のアメリカ経済におけるセクター別の影響を予測する。
- 勝者となる可能性が高いセクター:保護主義的な政策によって守られる国内製造業(鉄鋼、自動車部品など)、インフラ投資によって需要が喚起される建設・エンジニアリング業界、規制緩和とエネルギー自給政策の恩恵を受ける伝統的エネルギー産業(石油、天然ガス、石炭)、そして国内調達を重視する防衛産業が挙げられる。
- 敗者となる可能性が高いセクター:輸入品への依存度が高い小売業、報復関税の標的となりやすい輸出依存型の農業、サプライチェーンの寸断や海外市場へのアクセス制限に直面する多国籍テクノロジー企業、そして不利な規制環境に置かれる可能性のある再生可能エネルギー分野などが考えられる。
5.2 マクロ経済の見通し:スタグフレーションの影
新経済ドクトリンがマクロ経済に与える影響は深刻である。
- インフレ:保護主義(関税による輸入物価の上昇)、リショアリング(高コスト国での生産)、そして逼迫した労働市場(移民規制による労働供給の減少)は、すべて強力なインフレ圧力となる。これにより、過去数十年間に享受してきた低インフレ環境は終焉を迎え、構造的に高いベースラインのインフレ率が常態化する可能性が高い。
- 成長:インフラ投資による財政刺激は短期的な成長を押し上げるかもしれないが、脱グローバル化に伴う効率性の低下や潜在的な生産性の伸び悩みは、長期的なトレンド成長率を抑制する要因となる。
- スタグフレーションのリスク:持続的なインフレと低成長の組み合わせは、スタグフレーション(不況とインフレの同時進行)という深刻なリスクをもたらす。これは、金融政策(利上げは景気を冷やし、利下げはインフレを加速させる)と財政政策(財政出動はインフレを悪化させる)の双方にとって、極めて困難な政策運営を強いることになる。
5.3 世界貿易の未来:分断と地域化
アメリカが世界の自由貿易体制の保証人としての役割を放棄することは、国際経済秩序に地殻変動を引き起こす。
- 世界貿易は、経済的効率性よりも地政学的な考慮(「フレンド・ショアリング」)に基づいて再編され、サプライチェーンはより高コストで脆弱なものになるだろう。
- この動きは、EU中心のブロックや、中国が主導するRCEP(地域的な包括的経済連携)のような、地域的な貿易ブロックの形成を加速させる。
- アメリカは、多国間協調よりも二国間の取引的なアプローチを多用するようになり、国際的なパートナーにとって予測不可能性とボラティリティが増大する 10。
この「トランピズム」経済モデルは、その核心に未解決の根本的矛盾を抱えている。それは、20世紀半ばの高賃金・単一稼得者世帯経済の復活という政治的約束を、21世紀の金融化された債務依存型のツールで達成しようとしている点である。第二次大戦後の産業経済は、高い貯蓄率、戦災からの復興需要、強力な労働組合、そして全く異なる人口動態といった、今日では再現不可能な基盤の上に成り立っていた。「強靭な家庭」や「尊厳ある仕事」といった当時の「成果」を、その「基盤」なしに再現しようとする試みは、長期的に見て失敗する可能性が高い。
関税やインフラ投資といった政策は、巨額の政府債務によって賄われる。これは1980年代以降の金融経済の典型的な特徴である。この債務主導の景気刺激策は、一時的な雇用を創出するかもしれないが、それ自体がかつての生産性や社会構造を再建することはできない。最も可能性の高い長期的な帰結は、安定した新たな均衡状態ではなく、債務主導のブームとそれに続くインフレによる破綻のサイクルである。これは、そもそもこの政治運動に火をつけた経済的不安と社会の絶望を、結果的になお一層増幅させることになるだろう。このことは、政治的な「症状」が、今後さらに激しい形で再発し続けることを示唆している。
第6部 戦略的インプリケーションと結論
6.1 企業戦略担当者への提言
- サプライチェーンの多様化:従来の効率性一辺倒の最適化から、強靭性(レジリエンス)を重視したモデルへと転換することが急務である。地政学的ショックに対する脆弱性を低減するため、生産拠点の地理的分散や冗長性の確保が不可欠となる。
- 政治リスク分析の統合:政策の不安定性を主要な事業リスクとして位置づけ、高度な政治リスク分析をすべての主要な投資・戦略的意思決定プロセスに組み込む必要がある。
- ステークホルダーの再調整:グローバルな投資家の要求と、ナショナリスト的な政治家や分極化した国民からの圧力との間で、新たなバランスを取るためのステークホルダー戦略を再構築することが求められる。
6.2 投資家への提言
- セクター配分の見直し:ポートフォリオを、新たな経済環境下での勝者(国内産業、インフラ、伝統的エネルギー)へとリバランスし、敗者(グローバル化したテクノロジー、輸入依存の小売)へのエクスポージャーを減らすことを検討すべきである。
- インフレヘッジの重要性:構造的なインフレ環境下で良好なパフォーマンスを示す資産(コモディティ、不動産などの実物資産)を長期戦略に組み込むことの重要性が増している。
6.3 結論:地殻変動の恒久性
本報告書が会田氏の著書に基づいて明らかにしてきたように、トランプ現象を生み出した力は構造的かつ永続的なものである。穏やかなグローバリゼーションの時代は終わりを告げた。指導者がトランプ氏本人であろうと、あるいは同様の「トランプ型」政治を継承する後継者であろうと、アメリカがより内向きで、より対立的な経済史の新たな段階に入ったことは疑いようがない 4。
この新たな現実に適応することは、もはや選択的あるいは短期的な調整ではなく、すべてのグローバルな経済主体にとって、長期的な戦略的必須事項なのである。